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2019/02/11【道後大和屋】道後・大和屋 ホンマルニュース【第7回】愛媛が生んだ探検家 和田重次郎 前編
道後・大和屋 ホンマルニュース
愛媛・松山・道後の情報を発信しております。
今回 第7回は
愛媛が生んだ探検家 和田重次郎
~犬ぞり使いの神様~ です。
和田重次郎は明治8年 愛媛県で生まれました。松山市日の出町で育ち
明治25年 アメリカに旅立ち アラスカで数々の功績を残しました。
和田重次郎の活躍を語っていただくのは
和田重次郎顕彰会 事務局長 上岡 幹夫 (うえおか みきお) 氏です。
和田重次郎は、
1875年(明治8年)
愛媛県周桑郡小松町(現西条市)に、
父和田源八(旧小松藩士)と母セツの次男として生まれました。
1879年(明治12年) 重次郎が4歳のとき
父源八が病死し、母セツの実家のある
愛媛県温泉郡素鵞村(現 松山市日の出町)に身を寄せます。
日の出町は道後温泉の南にあります。
大和屋本店からは、車で10分です。
1892年(明治25年) 17歳のとき
「住友になる」という大志を抱き、アメリカに密航します。
重次郎の生まれた 小松町(現西条市) は、
住友財閥の大躍進の基となった別子銅山のすぐ近くです。
住友財閥の大きさを幼いころから知っていたのでしょう。
サンフランシスコに上陸後、捕鯨補助艦バラエナ号に乗り、三年間北氷洋で働く。
このとき、ノーウッド船長から英語・地理・測量等の知識を教えられました。
重次郎にとっては、これが、かけがえのない財産となりました。
バラエナ号の捕鯨基地だった ハーシェル島 手前は北極海です。地の果てです。
1896年(明治29年) 21歳になって 日本に一時帰国し、母に孝行を尽くします。
母 セツさん
親孝行をして アラスカに戻った重次郎
1897年(明治30年) 22歳
原住民のイヌイットさえ恐れていた北極圏の奥地を探検し、
犬ぞり使いと狩猟の名手と呼ばれるようになります。
犬ぞり使いの名手 と呼ばれていたころの重次郎です。
また、バローの地で
氷に閉じ込められた二ューポート号を救援します。
このことで、アラスカの地で重次郎の名声は
一層高まりました。
そして いよいよ
1903年(明治36年) 28歳のとき
アラスカ・フェアバンクスで金鉱を発見します。
この金鉱発見で、アラスカは猛スピードで開拓されます。
大活躍の重次郎です。
後編でも、まだまだ重次郎は活躍します。
重次郎の活躍地図です。
ドーソン・セワード・ホワイトホースは後編で紹介されます。
お話しいただいた 上岡幹夫 氏
顕彰会 事務局長はプライベート 松山市役所伊台支所 支所長という公職も務められています。
松山市 観光課長をされていた頃から、水野をご指導くださっています。
和田重次郎顕彰会 ホームページ
https://wadajujiro.com/
上岡 幹夫 氏 フェイスブック (ほとんどが重次郎関係の投稿です。)
https://www.facebook.com/ueoka.mikio?fref=search&__tn__=%2Cd%2CP-R&eid=ARA_XQFr-APUfL6wvr12l6e30NAYrSpDrS0iYxSdH-ooeCukz2l7rBKvYrpHOp3HmUBFBu7fFUslbouf
愛媛が生んだ探検家 和田重次郎 後編
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子規記念博物館 ~個人の博物館では世界最大~ 前編
ゲスト名 | 和田重次郎顕彰会 事務局長 上岡(うえおか) 幹夫 氏 |
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パーソナリティ | 水野真人 |
公開日 | 2019/02/11 |
過去の放送一覧 | 道後・大和屋 ホンマルニュース |