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  • 2024/10/13【PRi愛媛】第1278回「朴庵例会の風光」(第20回)黒瀬英作の夢を語ろうMy Friendは、『現代の覚者(かくしゃ)たち。続現代の賢者たち。』!!

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    第1278回「朴庵例会の風光」​(第20回)黒瀬英作の夢を語ろうMy Friendは、『現代の覚者(かくしゃ)たち。続現代の賢者たち。









    『現代の賢者(けんじゃ)たち。続現代の賢者たち。』
    縁尋機妙(一筋の道に生きる) 初期の「致知」の縁に覚醒した方々
    (発行:平成5年11月4日初版)

    [ひと筋の道に生きる人たち]
    『現代の覚者たち』というタイトルを見たとき、一瞬、「おや!」と思った。
    賢者という言葉は、現代ではあまり素直に受け取られにくい言葉だからである。しかし、その命名の由来を聞いて、納得がいった。
    賢者とは、自分の体験を通じて、真の深い知恵をつかんだ人、ということである。言いかえれば、打つ手がわかる人、ということでもある。人生の深い色合いを知った人、という言い方もできる。
    ここに、ご登場の七人の方々のお話を読んで、私は、深い感動を覚えた。まさに、一灯照隅(いっとうしょうぐう)の人生を黙々と歩まれ、その一灯の光で周囲の人をあたたかく照らされている人たちの姿がここにある。
    いま、日本は政治も経済も混迷(こんめい)をきわめているが、私は日本人全体の持つ復元力、バランス力を信じている。
    その私の思いを、本書を読み、ますます強くした。日本には、本当に偉い人たちがたくさんいる。私自身、本書からたくさんのことを学ばせてもらった。
    本書が一人でも多くの人に読まれることを願ってやまない。賢者たちの英知に触発され、それぞれの人の英知に火がつき一灯まさに万灯となると信じるからである。
    平成五年十月吉日
    松下電器産業相談役 山下俊彦

    「経営は宗教なり」の理念を貫く・・・カスミ会長・神林 照雄
    生還者は千人に一人、戦地の生死の狭間(はざま)で「命」の哲学を体悟(たいご)した。
    (かんばやし・てるお)
    ・大正十年韓国群山府生まれ(本籍地・茨城県土浦市)。
    ・昭和十六年京都薬学専門学校(現在の京都薬科大学)を卒業。
    ・31年霞(かすみ)百貨店常務取締役に就任し、のちに専務取締役に就任。
    ・42年霞ストアー(現在のカスミ)の代表取締役社長に就任。
    ・平成三年代表取締役に就任し、現在に至る。

    ハガキの恩に生かされた「ハガキ道」人生・・・ハガキ道・坂田 道信
    人や物の本質どおりにつき合えば、その人や物がすごく喜んで働いてくれる。
    (さかた・みちのぶ)
    ・昭和十五年二月二十日生。向原(むかいばら)高校卒。
    ・同42年(27歳)結婚。同46年8月、森信三先生、徳永康起(やすき)先生に出会う。
    ・同50年10月妻と死別。一男一女が遺される。農業の合間に種々の日雇い職を経験、その間もハガキを書き続け、現在に至る。

    人生は心一つの置き所、感謝の心が明日を開く・・・健康道場・コスモポート主宰・吉丸 房江
    切に思う心が深ければ、必ず明日への道は開けるもの
    (よしまる・ふさえ)
    ・昭和9年福岡県生まれ、小学校と幼稚園の教諭を経験。
    ・27歳で父を亡くし、30歳で母を亡くし、現代医学への疑問から東洋医学、東洋思想を学び、老子の思想に触れる。
    ・その思想に基づいて昭和53年、健康道場、コスモポートを開設し、現在に至る。
    ・著書に『丸くゆっくりすこやかに』「宇宙のリズムで暮らしたい」(地湧社刊)がある。

    「これ以上ない」ものへの思いと行動・・・フジゲン会長・横内 祐一郎
    みんなが燃えて立ち上がれるような、素晴らしい目標を作ろう
    (よこうち・ゆういちろう)
    ・昭和2年生まれ。同20年3月松本中学卒業。
    ・同4月農業を始める。
    ・同35年5月富士弦楽器製造㈱創業。専務に就任。
    ・同44年12月社長就任。
    ・同61年6月会長に就任。
    ・平成元年4月フジゲン㈱に社名変更。


    腰骨を立てることは心を立てること・・・仁愛保育園延長・石橋 富知子
    人間の土台は二歳児までに決まる。幼児期に人間としての種をまき、つぼみを創っておく
    (いしばし・ふちこ)
    昭和15年生まれ。22歳で結婚。25歳で幼児教育の道に入り、27歳まで保母の資格を取得。
    ・30歳で仁愛保育園(定員二百人)を設立し、現在に至る。

    酷寒のシベリアで私の人生は開かれた・・・BF六甲山麓研修所所長・志水 陽洸
    目標を立てて、やる気になって行動すれば、自分の総力は必ず高められる
    (しみず・ようこう)
    ・大正9年兵庫県生まれ。
    ・昭和22年シベリアより帰還。
    ・28年黒馬シャツを設立し、33年潜在能力研修のたは楠道場に入門。
    ・40年身心相関原理研究のため行岡医科学園入学。
    ・44年関西言論科学研究所に所員として入所。
    ・45年B・F運動を発足、日本青年会議所講師。
    ・平成3年(財)修養団、日本創造教育研究所講師。

    感謝して積ませてもらう「徳」こそ真実・・・熊本大慈寺住職・上月 照宗
    目に見える部分ではなく、目に見えない部分が生命をはぐくみ、育てる
    (こうづき・しょうしゅう)
    ・大正三年三重県生まれ。
    ・昭和七年から十六年まで曹洞宗管長・鈴木天山禅師に随侍。
    ・十六年駒澤大学仏教科卒業。
    ・三重県鈴鹿市泰應寺住職を経て、四十年から五十三年まで曹洞宗三重県宗務所長、東海管区長。
    ・五十九年曹洞宗大本山永平寺副監院を経て、監院。
    ・現在熊本大慈寺住職。



    『現代の覚者(かくしゃ)たち』
    初期10年間の「致知」の縁に覚醒した方々
    (発行:昭和63年6月20日初版)

    (はじめに)とにかく、この古き書籍の学びをもって、かみしめたい。スタート。
    「この世の中でなにがおもしろいといっても、人間ほどおもしろいものはなく、また人
    間の生きるこの世の中ほどおもしろいところはなかろう。静かに眺めれば、およそこの
    世の中は、日々生きた演劇の連続である。」
    「この年になって、私などはしみじみとあまりにも単色単音の中に生きてきたものだと
    思うのである。白色には、それはそれとしての意味はあるが、しかし、真実の人間は、
    そしてまた真実の世の中は、そんなに無味感嘆なものではなく、見れば見るほど、また
    考えれば考えるほど、不思議極まるものである。」
    「たとえば、梅原龍三郎画伯の『竹窓裸女』などを見ると、その女性が竹色に彩られて
    おり、初めはちょっと奇異に感じるが、しかし、これは画伯にとっては、いや真に光り
    に敏感な目には全く自然そのままのことで、そこにこそ芸術があり、鈍感な目には見え
    ない美の世界があるのである。」
    「だが、考えてみると、これはなにも絵の世界に限ったことではなく、人生のあらゆる面にもこういうことがあり、同じものを見ても、見える目と見えない目とでは大きな違いがあるのであろう。なんとしても望ましいことは、ただぼんやり見たり聞いたりするだけではなく、真に見える目、聞こえる耳を持ちたいことである。裏とか表などというと、なんとなく価値の評価を思わせるような感じがするが、しかし、「裏を見せ、表を見せて、散るもみじ」などと良寛が歌えば、裏は裏で美しく、表は表で美しく、なにも裏表は相反するものではなく、むしろ互いにひきたてあってその美を増しているのである」
    「このインタビュー集なども、こういう立場からみると、特に興味が深い。誠に各人各様思うまがままに語って、人生経験の浅い人々になどには一見でたらめのようにさえ思われる節もあるかもしれない。だが、決してそんな良い加減なものではなくそれぞれの立場で汗を流して生きてきた人々が、深い体験をあるがままに述べておられるのである。」
    「時には一見、お互いに相反するように思われるところもあるかも知れないが、それこそが、実はおもしろく、独創的なところであり、前に触れたように、鋭い感覚で描かれた芸術のようなもので、深く味わえば味わうほど、それぞれの立場における真実が語られておる。」
    「善とか悪とかいっても、『恩讐の彼方に』のような人もあり、また日常生活でもしばしばかくれたところに、実は頭のさがるような人もおられるのである。見ようによっては人は皆玉石混淆(ぎょくせきこんこう)のようなものだが、あまり安っぽく現象面だけを見ず、もっと真なる真実をもみたいものである。」
    「齢(よわい)八十を過ぎて、やっとこんなことを味わうようでは少し遅すぎるが、もっと目や耳が確かな時に、こういうことに気がつけば、人間も、またこの世の中もさらに幾層倍(いくそうばい)もおもしろく、かつ味のあるものになるであろう。」
    「十人おれば十人、一億おれば一億の生き方がある。それこそ生まれながらにして無限の可能性を与えられている人間の真の生き方であり、そこにこそ真の文化がある。矛盾の中に調和があり、調和の中に矛盾(むじゅん)があるようだが、それこそは本能と精神との対応から生まれる芸術的人生なのである。
    昭和六十三年五月吉日
    京都大学元総長 平澤 興
    Ⅰ 真理は現実の中にあり・・・森信三(もり しんぞう)
    (1985年11月号「致知」掲載)
    ・明治9年愛知県生まれ
    ・大正15年京都大学哲学科卒業。昭和13年建国大学教授、同28年神戸大学教授。
    ・著書に森信三全集(全25巻)、森信三選集(全8巻)、森信三著作集(全10巻)、続・森信三全集(全8巻)がある。
    ・「国民教育の父」といわれ、学校の再建建て直しを頼まれ、86歳まで、全国を講演行脚する。
    ・平成4年没。

    Ⅱ 生命は行動する者に、その力を発揮する・・・鈴木鎮一(すずき しんいち)
    (1987年6月号「致知」掲載)
    ・明治31年愛知県生まれ
    ・名古屋商業卒。17歳よりヴァイオリンを始め、大正10年より昭和4年までドイツに留学し、カール・グリングラーに師事する。
    ・帰国後帝国高等音楽学校校長等、音楽教育に専念。
    ・昭和25年才能教育研究会設立。
    ・同41年ケンタッキー州立ルイビル大学より名誉音楽博士の称号を受ける。
    ・また、幼児の音楽才能開発に尽くした功により中日文化賞、信濃毎日文化賞を受賞。
    ・同45年勲三等に叙せられる。
    ・著書「愛に生きる」等多数。

    Ⅲ 『命の尊さ』を守るため闘い続ける・・・三宅 簾(みやけ れん)
    (1987年2月号「致知」掲載)
    ・明治36年神戸生まれ。
    ・昭和3年京都府立医科大学卒業後、同大学教授を経て、同26年パルモア診療所を開設する。
    ・同31年にはバルモア病院を開設する。
    ・平成6年没

    Ⅳ 念ずれば花ひらく・・・坂村真民(さかむら しんみん)
    (1987年8月号「致知」掲載)
    ・明治42年熊本県生まれ
    ・満8歳のとき父が急逝し、大きな転機となる。
    ・主なる著書は、歌集「石笛」、詩集「朴」、随筆集「念ずれば花ひらく」「生きてゆく力がなくなる時」「愛の道しるべ」、仏像写真とその詩「み仏は風の如く花の如く」等多数。

    Ⅴ よく生きることは、よく死ぬことなり・・・関 牧翁(せき ぼくおう)
    (1984年9月号「致知」掲載)
    ・明治36年群馬県生まれ。
    ・慶応義塾大学医学部在学中に武者小路実篤氏の「新しき村」に共鳴して同大学中退、岐阜県伊吹山麓の「愛の村」に入村、瓦を焼きながら地方青年の生活指導に当たる。
    ・昭和3年禅門生活に入る。
    ・同5年京都嵯峨天龍寺専門道場で関精拙師について修行。
    ・同12年洛北等寺住職。
    ・同14年天竜寺派専門道場師家。
    ・同21年天竜寺派管長となる。
    ・著書に「禅の話」「男子百勝」「長たる心」ほか。
    ・平成3年没

    Ⅵ 命を賭けてつくったものは、いつまでも生きる・・・松野幸吉(まつの こうきち)
    (1981年6月号「致知」掲載)
    ・明治39年兵庫県神戸市生まれ。
    ・商業学校卒業後、昭和8年関西大学法学部を卒業。
    ・公務員勤務の後、33歳で松下電器産業に入社。
    ・昭和21年東京支店長、同24年に取締役に就任。
    ・同42年会長となり、同61年相談役就任。
    ・平成元年没。

    Ⅶ 八十歳になっても人間の成長はこれからである・・・平澤 興(ひらさわ こう)
    (1985年12月号「致知」掲載)
    ・明治33年新潟県生まれ。
    ・大正13年京大医学部を卒業後、新潟医大助教授を務め、昭和2年解剖学研究のためドイツ・アメリカに留学。帰国後同大学教授、同21年京大医学部教授。特に、随意運動と不随意運動に関係する錐体路と錐体外路の研究に優れ、この業績により、同26年学士院賞を受賞。同31年医学部長、同32年総長となる。
    ・同38年任期満了により退任。
    ・平成元年没。

    今日も本気で語ります!!



    パーソナリティ 夢を語ろう My Friend【10分番組】
    アシスタント 黒瀬英作さん
    公開日 2024/10/13
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