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  • 2023/02/09【PRi愛媛】【第1204】(第3回)黒瀬英作の夢を語ろうMy Friend は、「朴庵例会の風光」②!!

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    第1204回(第3回)黒瀬英作の夢を語ろうMy Friendは、「朴庵例会の風光」!!

    ・黒瀬英作は人間学誌・致知の愛読者の会「徳島眉山木鶏クラブ」の代表世話人を拝命しております。

    ・「朴庵例会」は「坂村真民先生」と「片山克・全国朴の会会長」が同行二人として継続開催いただき、
       「詩国」と「詩国の朴」として、毎月発刊送付いただいたご恩と共に、
        人間としての「原点回帰」「本性回復」の「縁にふれ、に学び、縁を生かす」よき機会となればと存じます。








    「朴庵例会の風光」を求めて・・・
    ・私自身が、もう一度、1999年当時の朴庵例会の風光をたずねなおしたいのです。よろしければ、同行二人として「あせらず、あわてず、あきらめず」「縁にふれ、縁に学び、縁をいかす」つもりでコツコツ、凡事徹底の気持ちで伴ににいかがでしょうか。
    以下の二つの動画をご覧になっていただけたら、私の体験した「風光」をさらに具体的に感じていただけるのかと思います。


    (後半)渡鮮した翌昭和十年(1935年)三月二十七日、しんみんさんは二十六歳で結婚した。相手は同郷の熊本県玉名郡月瀬村青木(現玉名市)の辛島徳蔵・リヨ夫妻の一女で十八歳の久代さんである。久代さんの両親は早く亡くなったが、兄四人に慈しまれ、長兄の許ですくすくと成人していた。その天与の麗質がしんみんさんの母君の眼に止り、選び出されたときく。この婚約が決まった時、母君もしんみんさんも喜びで有頂天になり、手に持てる限りザボンを買いまくった詩がある。
    日中戦争の進展は、元来、筋骨薄弱第二乙のしんみんさんにさえ召集礼状が来た。幸に戦場に駆り出されることなく解除になり、新たに男子校である全羅北道官立全州師範学校に奉職したが、ここは独立運動の盛んな土地柄で日本官憲の眼は特に光り、生徒達は何かと捉えられ投獄された。それを貰い下げに行ったしんみんさんは師弟相擁してよく哭いた。それらがしんみんさんの心に、差別に対する憤り、権威に対する反抗、貧困に対する同情を培った。それらは、しんみん詩に色濃く表現されていると思う。
    日本帝国の瓦解と共に、辛酸をなめた人は何千万といる。外地から無一物で引き揚げた人。戦災で財産を一切失った人。働き手を戦争で亡くした孤児や孤老。流浪、惨苦、困憊(こんぱい)の生活を余儀なくさせられた人は、しんみんさん一人だけではない。ただその惨苦困憊をどう受けとめ、どう立ち上がったかが問題なのだ。
    (三瓶町時代)
    朝鮮から引き揚げて一旦、故山九州の母堂の所へ落ち着いたしんみんさんは、家族を養うため職を求めて四国三瓶町に移住した。海運王山下亀三郎氏が、母堂の恩愛に報いるため、母堂の生誕地に設立した特殊の私立女学校であった。この年しんみんさん三十七歳、家族は、夫人と長女梨恵子さん、次女佐代子さんがあり、後に三女真美子さんが生まれた。
    専ら歌作に専念していたしんみんさんの裡(うち)に、詩作の願望が執念となって頭をもたげたのは、この三瓶時代である。境遇の激変に伴う詩魂の沸騰は、定型詩である短歌のリズムに盛り切れぬものがあった。思うところを自由に大胆に、溢れる情感の絃(いと)にのせて歌いたい。彼は年来の短歌をいさぎよく詩に代えた。
    さの三瓶時代に出版された詩集『六魚庵天国』は、素純なしんみんさんの本質をまことによく表白していて、清麗でつつましく、悲痛を湛(たた)えた中に、純粋な愛のまことが縦糸となって貫いている。読者をして感動させずにはおかなかった。詩人としての出発に白金の筋金を入れたものと言える。
    三瓶町三年の貧窮時代を経て、愛媛県立吉田高等学校に転じた。この地は山下亀三郎氏の生地で、山下氏の創建された女学校があり、後合併して県立校となった。
    吉田町でしんみんさんは、深い仏縁に結ばれる。臨済宗妙心寺派大乗寺専門道場に参禅し、生涯の大恩師と仰ぐ杉村春苔尼様を、悲母観音とも仰ぎ、思慕崇敬の限りを尽くしている多くの詩をよむと、さながら中世の修道士が、マリヤ様の前に脆拝して、祈りを捧げる姿を彷彿させる。
    (吉田町・宇和島時代)
    吉田町在住は、しんみんさんにとり貧乏生活ながら、実り多き豊かな心を培われた時代であったと思う。利根白泉翁のような高邁な隠士を知って、無欲活淡な生き方を学び、杉村春苔尼様と併せて、両者の火のような衆生済度の菩薩道を歩む決意をも養われた。
    しんみんさんが四国の片隅で過ごされたことは、後年の大器晩成のため慶祝すべきことであった。大都会などへ出て、否、出ずとも中央詩壇の人などと交流して、時流の詩を作っていたら、今日の国民詩人しんみんさんは生れなかったと思う。
    吉田町から昭和三十一年(四十七歳)四月に県立宇和島東高等学校に転勤した。古く由緒ある城下町で、恐らく詩魂を養うのには最適の環境であったと思う。この地でしんみんさんの公刊第一詩集『自選坂村真民詩集』が利根白泉翁の美麗な装釘で発刊された。詩集刊行の一般常識を破って、この詩集はまたたく間に版を重ね、現在二十五版となった。それほど読者の心を魅了する温かさ、優しさ、なつかしさを持ち、心悲しむ者達の慰籍となる詩にみちみちていたのである。
    (詩作・求道・三昧へ)
    しんみんさんは定年で宇和島高校を去って、現在松山市郊外砥部町の重信川の畔に、ひっそり詩作三昧の日々を過ごされている。三人のお嬢さん達はそれぞれ大学を卒業して結婚され、今は夫人と共に二人きりの生活であるが、簡素な日常の中で、火のような求道心だけは捨てていられない。
    それは、愛する祖国日本の現在と将来を憂え、縁ある人達に、詩をもって、光明をもたらそうと努めているのである。四国に来て、しんみんさんは、一遍上人の信仰に随順した。
    一遍上人が衆生済度のため、六十万人往生を発願されて「南無阿弥陀仏」と書いた札を配って歩かれた賦算の行持を、自分も嗣(つ)ごうと決心された。しかし、現代人は「南無阿弥陀仏」と申しても感覚的に受け入れてくれない。「南無阿弥陀仏」に代る詩をもって、人々に訴えようと考えたのである。
    しんみんさんの詩は、それゆえ、表現はやさしい。九十のおばあさんでも三歳の童子でもよめる。しかし、読む者の立場からいえば、相手により深くも大きくも、強くひびく楽器のようなものだ。易しいコトバの奥の意味の何と深遠であることよ。
    詩をよく理解する米沢英雄博士は言った。
    「本当の詩とは『根元の世界』の消息を人間の言葉を翻訳して人々に伝えるものだ、それが本当の詩人だ」と。「根元の世界」とは花を花たらしめ、朝を朝たらしてめる仏の理法のはたらきそのものである。しんみんさんはこれを大詩母様と呼んで、「自分の詩は大詩母様から授かるので、いつ授けられるか分からないから、ボヤボヤ眠ってなどいられない。また一時間でも一分でも長生きして、多く授かり人々に知らしめたい」と念願しておられる。詩作の根本態度が世の名聞功利の詩人達と違っているのである。
    確信にみちた頑固一徹とも思える真民詩の断定的なコトバに逢う時、私はカリスマ性を感じるのだが、それも多くの読者にとっては大いなる魅力の一つであろう。
    https://www.youtube.com/watch?v=BuIEmZ1uUuk&t=127s
    https://www.youtube.com/watch?v=zl53Q8XiT7Y


    [原点回帰・本性回復]「朴庵例会の風光」として、1999年(令和11年)回顧。

    (「さかむらしんみんさんの風光」(岩野喜久代)より)分割掲載します。
    ・ホンマルラジオでもこれから、10分×2回にわけて朗読予定します。
    (まず、さかむらしんみんさんの人物を、母念の視点で慈愛をもって解説いただきます
    。)
    ①幼児期
    国民詩人坂村真民先生は、明治四十二年(1909)年一月六日、熊本県玉名郡府本村
    三七一番地に父、坂村子司(タネジ)母タ子(たね)の長男として生まれた。
    本名昴(たかし)、真民の名は後年母君の懇請により改めて用いたという。
    真はまこと、まごころ、民は人間の意で、恐らく母君は、まっとうな正しいまことの人
    間になれよとの祈りをこめて、真民の名を贈られたものであろう。
    真民先生ご自身もこの名を特に好まれ、詩の中にもしばしば取り上げていられる。
    特に、人々に自分を呼ぶなら、しんみんさんと呼んで欲しいと詩っていられる。
    そこで私も以下親愛敬慕の情をこめて、しんみんさんと優しいひびきをもつ呼称を用い
    る。
    ご両親はいずれも堂々たる強健な体格の持主であったのに、しんみんさんは親に似ず゛
    小さくて弱々しく、乳もよく呑まず痩せて、眼ばかり大きな虚弱児であったという。
    夜も熟睡する赤ん坊ではなく、特に朝は小鳥より早く目覚めた。
    この性癖はしんみんさんの生涯を通じた特徴となり、夜半起床、普通人のように眠りた
    がらぬ特技を持つと、自ら言うようになった。
    普通人は一日二十四時間の中、八時間は眠る。
    しんみんさんはその半分の四時間くらいしか眠らないから、生涯を通算してみれば、人
    の二倍は長く生きて活動されたことになる。
    しんみんさんは三歳の時、赤痢にかかり村の避病舎に送られたが、その時「どうせ死ぬ
    のだからいい着物は着て行かない」と言って母君を悲しませたという。
    すでに三歳の幼児が生死の問題にぶつかって、これに対処する稀有の例を私たちはここ
    に見る。
    ペットの犬や猫、小鳥の死にあって、漠然と死を悲しむ何百万の幼児はあっても、自分
    と死をつなげて考える幼児があるだろうか。
    この点から考えても、しんみんさんは震えるような繊細な神経をもち、生まれながらに
    して、生死の深淵を覗いて、深刻な人生を歩むべく、運命づけられた、神に選ばれた人
    だと申してもよい。
    (誕生時のハンディの中でも、将来の個性としての早起き・健脚の資質の一旦を秘めて
    いることがうかがわれます)

    https://www.city.kochi.kochi.jp/soshiki/117/mimasegakushakaiko2022.html


    今日も本気で語ります!!



    <一般社団法人PEACEROAD in EhimeHP>
    https://www.peaceroadinehime.com/



    パーソナリティ 夢を語ろう My Friend【10分番組】
    アシスタント 黒瀬英作さん
    公開日 2023/02/09
    過去の放送一覧 夢を語ろう My Friend【10分番組】

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